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【ロシアの誕生】国の歴史を簡単にわかりやすく徹底解説!初代国家から現代までの流れ

「ロシアってどんな歴史をたどってきた国なの?」「ニュースでよく聞くけど、そもそもどうやって誕生したんだろう?」そんな疑問をお持ちではありませんか。

広大な国土を持つロシアの歴史は、長くて複雑そうに感じるかもしれません。しかし、ポイントさえ押さえれば、初心者の方でもその壮大な物語を楽しく理解することができます。

この記事では、専門用語を一切使わず、具体的なエピソードを交えながら、ロシア誕生の瞬間から現代に至るまでの歴史を、世界で一番わかりやすく解説します。この記事を読み終える頃には、あなたもロシアの歴史の大きな流れを語れるようになっているはずです。

目次

結論としてロシアの誕生は東スラブ人の国キエフ・ルーシから全てが始まる

まず最初にこの記事の結論からお伝えします。現在のロシア、ウクライナ、ベラルーシの共通のルーツとされる最初の国家が、9世紀後半に誕生した「キエフ・ルーシ」です。

この国の誕生こそが、ロシアの歴史の壮大な物語の始まりと言えます。ここから全てが繋がっていくのです。

補足:キエフ・ルーシとはどんな国?

キエフ・ルーシは、特定の民族の国というよりは、ヴァイキングの「ルーシ」を支配者層とし、多数の東スラブ人部族をまとめた複合的な国家でした。首都は現在のウクライナの首都キーウに置かれ、ドニエプル川を通じた交易で大いに栄えました。この国が、後のロシア文化や宗教の礎を築いた、いわば「ご先祖様」にあたる存在です。

国家の原点キエフ・ルーシの誕生がロシアの歴史の第一歩であること

現在のロシア連邦に直接つながる歴史の源流をたどると、私たちは9世紀の「キエフ・ルーシ」という国に行き着きます。

これは、今のウクライナの首都キーウ(キエフ)を中心に栄えた、東スラブ人たちの最初の統一国家でした。当時、この地域には多くのスラブ人の部族が暮らしていましたが、彼らをまとめ上げ、国として組織したのがヴァイキング(ノルマン人)の一派である「ルーシ」と呼ばれる人々だったとされています。

なぜキエフ・ルーシがロシア誕生の原点として重要なのかをわかりやすく解説

キエフ・ルーシがロシアの誕生の原点として非常に重要なのは、単に最初の国家というだけではありません。この時代に、後のロシア文化や国家の根幹となる要素が形成されたからです。

例えば、宗教です。10世紀末、キエフ・ルーシのウラジーミル1世は、国の統一と発展のためにギリシャ正教を国教として採用しました。この時に受け入れられた文化や文字は、現代に至るまでロシアの文化や芸術に深く根付いています。

現代のロシアとウクライナの複雑な関係の歴史的背景を簡単に知る

キエフ・ルーシが現在のウクライナの首都キーウを中心としていたという事実は、現代のロシアとウクライナの複雑な関係を理解する上で非常に重要です。

両国は、同じキエフ・ルーシという「親」から生まれた「兄弟」のような関係にあります。しかし、歴史の流れの中で、彼らはそれぞれ異なる道を歩むことになりました。この共通のルーツを持つがゆえの複雑な歴史的背景が、現代の両国関係に深い影響を与え続けているのです。

最初の国家キエフ・ルーシが誕生する以前の広大な大地と人々の暮らし

ロシアの歴史がキエフ・ルーシから始まるとはいえ、もちろんそれ以前から広大な東ヨーロッパの平原には人々が暮らしていました。

国家という形が生まれる前、この地はどのような姿だったのでしょうか。その様子を少し覗いてみましょう。

補足:スラブ人とは?

スラブ人とは、ヨーロッパの東部や中部に広く分布するインド・ヨーロッパ語族のスラブ語派を話す人々の総称です。現在では、地域によって東スラブ人(ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人)、西スラブ人(ポーランド人、チェコ人)、南スラブ人(セルビア人、クロアチア人)などに分かれています。ロシアの歴史の主役となるのは、このうちの東スラブ人です。

国家なき時代に暮らしていたスラブ系民族の生活をわかりやすく紹介

9世紀より前、現在のロシア西部からウクライナにかけての広大な森林と平原には、東スラブ人と呼ばれる人々が農耕や狩猟をしながら暮らしていました。

彼らは特定の王を持たず、血縁に基づいた部族単位で集落を形成し、豊かな自然と共に生きる独自の文化を育んでいたのです。

ヴァイキングの登場がロシアの歴史を大きく動かすきっかけとなったこと

そんな東スラブ人たちの土地に、8世紀から9世紀にかけて大きな変化が訪れます。北方のスカンディナヴィア半島から、「ヴァイキング」と呼ばれる人々が川を伝ってやって来たのです。

彼らは屈強な戦士であると同時に、優れた商人でもありました。毛皮や蜂蜜などを求めて、バルト海から黒海やカスピ海へと至る壮大な交易ルートを開拓したことが、歴史を大きく動かしました。

交易路の発展が都市の形成と国家誕生の土台を築いた歴史的経緯

ヴァイキングが開拓した交易ルートは、単に物が動くだけでなく、人と情報が行き交う「情報のハイウェイ」でもありました。

このルート沿いには、ノヴゴロドやキエフといった交易の拠点となる場所が次々と生まれます。この都市の発展と、そこに君臨したヴァイキングの支配力が結びつくことで、やがて「国家」という大きな組織が誕生する土台が築かれていきました。

ロシアの歴史の幕開けとなったキエフ・ルーシの成立と繁栄をわかりやすく解説

ヴァイキングの到来と都市の発展を経て、ついに東スラブの地に最初の統一国家が誕生します。

ここからが、私たちが知る「ロシアの歴史」の本格的な始まりです。その誕生の物語と、国家がどのように栄えていったのかを見ていきましょう。

伝説の指導者リューリクとノヴゴロド国の建国がロシア誕生の序章となる

ロシアの最も古い年代記である『原初年代記』には、国家誕生の伝説的な物語が記されています。

それによると、862年、内紛に疲れたスラブの部族たちが、海の向こうのヴァイキング「ルーシ」からリューリクという指導者を招きました。リューリクは現在のロシア北西部にある都市ノヴゴロドを拠点とし、この地を治めました。これが、ロシア国家の最初の礎であるリューリク朝の始まりとされています。

オレグ公によるキエフ占領とキエフ・ルーシの建国までの歴史の流れ

リューリクの死後、その後継者であるオレグは、さらに南へと勢力を拡大します。

882年、オレグは巧みな策略を用いてキエフを占領し、「ここをルーシの諸都市の母とする」と宣言しました。そして、ノヴゴロドからキエフへと都を移し、広大な領域を支配する統一国家「キエフ・ルーシ」が実質的に成立したのです。

キリスト教の受容が国家の統一と文化の発展に与えた影響を簡単に知る

キエフ・ルーシが最盛期を迎える上で決定的な役割を果たしたのが、キリスト教(ギリシャ正教)の受容です。

10世紀末、ウラジーミル1世は、国のさらなる統一と国際的な地位向上を目指し、キリスト教を国教と定めました。これにより、当時先進的な大国であったビザンツ帝国との結びつきが強まり、高度な文化や法律、建築技術がもたらされたのです。

タタールの軛として知られるモンゴル支配がロシアの歴史に与えた大きな影響

繁栄を誇ったキエフ・ルーシですが、その栄光は永遠には続きませんでした。

13世紀、東方からやってきた強大な勢力、モンゴル帝国によってその歴史は大きく塗り替えられます。この約240年間に及ぶ支配は「タタールの軛(くびき)」と呼ばれ、ロシアの歴史に深い痕跡を残しました。

補足:タタールの軛(くびき)とは?

「軛(くびき)」とは、牛や馬の首にかけて車などを引かせるための道具のことです。そこから転じて、自由を束縛し、人々を苦しめる重い支配を意味する言葉として使われます。モンゴルによる支配が、当時のロシアの人々にとっていかに過酷で屈辱的なものであったかを象徴する表現です。

チンギス・ハンの孫バトゥによる侵攻とキエフ・ルーシの崩壊をわかりやすく解説

13世紀、ヨーロッパ遠征軍を率いたのがチンギス・ハンの孫であるバトゥでした。

1240年、圧倒的な軍事力を持つモンゴル軍によって首都キエフは徹底的に破壊され、陥落しました。これにより、かつて繁栄したキエフ・ルーシは実質的に崩壊し、ロシアの地はモンゴル帝国の支配下に入ることになったのです。

ジョチ・ウルスによる間接統治が後のロシアの国家システムに与えた影響

キエフ・ルーシを征服したモンゴルは、この地に「ジョチ・ウルス」という国を建て、ロシアの諸公国を支配下に置きました。

彼らは、各公国の公の地位を認め、彼らを通じて税を取り立てるという間接統治の方法をとりました。このシステムは、税を確実に集めるための強力な徴税システムや駅伝制度などをロシアにもたらし、後のモスクワ大公国が中央集権的な国家を築く上での手本ともなりました。

モンゴル支配がロシアの西欧からの孤立と独自の発展を促した歴史的背景

「タタールの軛」がもたらしたもう一つの大きな影響は、ロシアを西ヨーロッパから文化的に、そして政治的に孤立させたことです。

当時の西ヨーロッパではルネサンスなどの大きな変革の波が訪れていましたが、ロシアはその流れから取り残されました。一方で、アジア的な専制君主の統治システムに長期間触れたことで、ロシアは西欧とは異なる独自の国家体制を発展させていくことになります。

モスクワ大公国の台頭とロシア統一への道のりをわかりやすくたどる

モンゴル支配という苦難の時代の中で、ロシアの歴史の新たな主役が静かに力を蓄えていました。

それが、当初は辺境の小さな都市に過ぎなかったモスクワです。なぜモスクワが台頭し、ロシア再統一の中心となれたのか、その道のりを見ていきましょう。

辺境の都市モスクワがロシアの中心地へと成長した地理的要因と政治的戦略

当初のモスクワは、小さな地方都市に過ぎませんでした。しかし、モスクワの歴代の公たちは、モンゴルの支配者であるハンに忠実に仕え、他の公国に先んじてロシア全土からの税を取りまとめる「徴税代行権」を獲得することに成功します。

これにより、モスクワは経済的な富と政治的な権威を同時に手に入れたのです。

イヴァン・カリターの時代に築かれたモスクワ大公国の経済的・宗教的基盤

モスクワ台頭の基礎を築いた人物として特に重要なのが、14世紀前半のイヴァン1世、通称「イヴァン・カリター(金袋)」です。

彼の最大の功績は、ロシア正教会の中心を、荒廃したキエフやウラジーミルからモスクワへと移転させたことです。これにより、モスクワは政治・経済の中心であるだけでなく、ロシアの宗教的・精神的な中心地ともなり、その権威を絶対的なものにしていきました。

イヴァン3世によるタタールの軛からの解放とロシア国家の統一事業の完成

そして15世紀後半、ついにロシアが長年のモンゴル支配から解放される時が来ます。その偉業を成し遂げたのが、イヴァン3世です。

1480年、ウグラ河畔でモンゴル軍と対峙し、戦わずして撤退させ、約240年間続いた「タタールの軛」を終わらせました。さらに彼は、ライバルの諸公国を次々と併合し、ロシアの大部分をモスクワの旗の下に統一しました。

初代ツァーリのイヴァン雷帝の登場とロシア帝国の礎が築かれた歴史

ロシアの統一が達成された後、国家は新たな段階へと進みます。

それは、一人の君主が絶対的な権力を持つ「専制国家」への道です。その強烈な個人の力でロシアを形作ったのが、初代「ツァーリ」を名乗ったイヴァン4世、通称「イヴァン雷帝」です。

補足:「ツァーリ」とは?

「ツァーリ」は、古代ローマの英雄カエサルの名に由来する称号で、日本語では一般的に「皇帝」と訳されます。単なる王や大公とは一線を画し、神から直接統治の権威を授かった、地上の最高権力者であるという意味合いが込められています。この称号を用いることで、イヴァン4世は自らの権力が貴族たちよりも上位にある絶対的なものであることを内外に示そうとしました。

イヴァン雷帝がなぜ初代ツァーリを名乗り専制政治を始めたのか

イヴァン4世は、1547年にロシアで初めて「ツァーリ」の称号を正式に用いました。

彼が専制政治を目指した背景には、幼少期に経験した有力貴族たちの激しい権力争いがありました。彼は、貴族たちの権力を抑え、国家の全ての権力をツァーリの元に集中させなければ、ロシアは再び分裂してしまうと考えていました。

領土拡大と法典編纂に見るイヴァン雷帝の功績と国家建設への貢献

「雷帝」という恐ろしいあだ名とは裏腹に、イヴァン4世の治世前半には大きな功績があります。

彼は、カザン・ハン国などを征服して領土を東方へ大きく拡大させました。また、内政においては、新たな法典『スジェブニク』を編纂するなど、中央集権的な国家システムを整備しました。

オプリーチニナという恐怖政治がロシア社会に残した深い傷跡を簡単に解説

しかし、治世後半のイヴァン雷帝は、猜疑心に駆られ、極端な恐怖政治へと突き進みます。

彼は、自らの直轄地「オプリーチニナ」を創設し、親衛隊を使って、対立する貴族や聖職者、さらには一般市民までをも容赦なく粛清・虐殺しました。この恐怖政治は、多くの人々の命を奪っただけでなく、国の経済を混乱させ、社会に深い亀裂と不信感を植え付けたのです。

ピョートル大帝の西欧化政策がロシアの歴史を劇的に変えた瞬間を学ぶ

イヴァン雷帝の死後、ロシアは「動乱時代」と呼ばれる混乱期を経て、ロマノフ朝が始まります。

そして17世紀末、このロマノフ朝に、ロシアの歴史を根底から覆すような偉大な皇帝が登場します。それが、身長2メートルを超す巨人皇帝、ピョートル1世、通称「ピョートル大帝」です。

ピョートル大帝がなぜヨーロッパの技術と文化の導入を強力に推し進めたのか

ピョートル大帝が皇帝に即位した当時のロシアは、ヨーロッパの主要国と比べて技術や文化、軍事力の面で大きく立ち遅れていました。

若い頃、身分を隠して西ヨーロッパの国々を自ら視察したピョートルは、その圧倒的な先進性を目の当たりにし、強烈な衝撃を受けます。彼は、ロシアが強国として生き残るためには、ヨーロッパの進んだ技術や制度を全面的に取り入れ、国を根本から作り変えるしかないと痛感しました。

北方戦争の勝利とバルト海の窓サンクトペテルブルクの建設という偉業

ピョートルの最大の目標は、冬でも凍らない不凍港を獲得し、ロシアがヨーロッパへ直接アクセスできる「窓」を開くことでした。

そのために、当時バルト海の覇者であった強国スウェーデンに「北方戦争」を挑み、勝利しました。そして、ネヴァ川の河口の湿地に、ヨーロッパ風の壮麗な新都「サンクトペテルブルク」を建設したのです。これは名実ともに「ヨーロッパへの窓」となり、ロシア帝国の新たな首都となりました。

ひげ税や暦の変更などロシアの伝統を覆した急進的な改革を簡単に紹介

ピョートルの改革は、軍事や行政といった分野にとどまりませんでした。

彼は、ロシアの伝統的な生活様式そのものをヨーロッパ風に変えようとしました。貴族たちにロシア風の長いひげを剃ることを強制し、拒否する者からは「ひげ税」を徴収した話は特に有名です。これらの改革によって、ロシアは短期間で近代的な姿へと変貌を遂げました。

農奴解放から革命へ向かう激動の19世紀ロシア帝国の歴史をわかりやすく解説

ピョートル大帝によって強国への道を歩み始めたロシア帝国は、18世紀に黄金期を迎えます。

しかし、その華やかな栄光の裏側で、国内には深刻な社会問題が蓄積していました。19世紀は、その矛盾が噴出する激動の時代となります。

補足:農奴制とは?

農奴制とは、農民が土地に縛り付けられ、領主の所有物として扱われる制度のことです。農奴は移住や職業選択の自由がなく、領主のために労働する義務を負っていました。西ヨーロッパでは中世後期には衰退していましたが、ロシアでは19世紀後半まで存続し、国の近代化を妨げる最大の要因と見なされていました。

ナポレオン戦争の勝利がもたらした栄光とデカブリストの反乱という揺らぎ

19世紀初頭、ロシアは1812年の祖国戦争でナポレオン軍を打ち破り、その国際的地位を頂点にまで高めました。

しかし、西ヨーロッパの自由な空気に触れた若い貴族将校たちは、ロシアの現実に疑問を抱き、1825年12月に武装蜂起を起こしました。この「デカブリストの乱」はすぐに鎮圧されましたが、後の革命運動の原点となりました。

クリミア戦争の敗北がロシアの後進性を露呈させ農奴解放令へとつながった経緯

19世紀半ば、ロシアはクリミア戦争でイギリスやフランスに手痛い敗北を喫します。

この敗戦は、ロシア社会の根幹である農奴制が、国の近代化を妨げる大きな足かせとなっていることを誰の目にも明らかにしました。この危機感から、皇帝アレクサンドル2世は1861年に農奴解放令を発布しました。

解放された農民の不満とインテリゲンツィアによる革命思想の広がり

農奴解放令によって農民は法的には自由になりましたが、生活は依然として困窮していました。

時を同じくして、大学などで教育を受けた知識人層「インテリゲンツィア」の中から、革命思想を広めようとする人々が現れます。しかし、彼らの運動は過激化し、皇帝アレクサンドル2世を暗殺してしまい、社会をさらなる混乱と弾圧の時代へと導きました。

ロマノフ朝の終焉と世界を震撼させたソビエト連邦の誕生をわかりやすく解説

19世紀を通じて蓄積された社会の矛盾は、20世紀に入るとついに限界に達します。

第一次世界大戦への参加が引き金となり、300年続いたロマノフ朝は崩壊し、世界で初めての社会主義国家が誕生します。ロシアの歴史が、そして世界の歴史が大きく動いた瞬間です。

日露戦争の敗北と血の日曜日事件がロシア第一革命の引き金となった歴史

20世紀初頭、ロシアは日露戦争に敗北し、帝国の権威は大きく失墜しました。

1905年1月、皇帝に平和的に請願しようとした労働者のデモ隊に軍隊が発砲する「血の日曜日事件」が発生。これをきっかけに全国で反乱が頻発する「ロシア第一革命」が起こりましたが、根本的な問題は解決されませんでした。

第一次世界大戦の疲弊がニコライ二世の退位と二月革命を招いた流れ

1914年に第一次世界大戦が始まると、ロシアは近代的な総力戦に対応できず、国内では食糧不足や物価の高騰が深刻化しました。

そして1917年2月、首都で大規模な暴動が発生し、皇帝ニコライ2世は退位を余儀なくされました。こうして、300年以上続いたロマノフ朝はあっけなく崩壊したのです。

レーニン率いるボリシェヴィキによる十月革命とソビエト連邦の成立

皇帝の退位後、臨時政府が樹立されましたが、国民の支持を得られませんでした。

その一方で、レーニンが率いる過激な社会主義グループ「ボリシェヴィキ」が急速に支持を拡大します。そして1917年10月、武装蜂起によって権力を掌握し、1922年に世界初の社会主義国家「ソビエト連邦(ソ連)」の成立を宣言しました。

ソ連崩壊から現代ロシアへ至る歴史の流れを簡単に振り返る

レーニンとその後継者スターリンの下で強大な国家となったソ連は、戦後アメリカと世界を二分する超大国として君臨しました。

しかし、その巨大な体制も、やがて内部から崩壊の時を迎えます。

冷戦の終結とゴルバチョフの改革がソビエト連邦崩壊につながった経緯

1985年に最高指導者となったミハイル・ゴルバチョフは、「ペレストロイカ(改革)」と「グラスノスチ(情報公開)」という改革に乗り出します。

しかし、この改革は、それまで抑圧されていた国民の不満や、構成共和国の独立要求を一気に噴出させる結果を招きました。1989年には「ベルリンの壁」が崩壊し、冷戦は終結に向かいますが、ソ連という国家そのものの結束は失われていきました。

エリツィン時代の混乱と経済危機が現代ロシアの基礎を形作った歴史

1991年12月、ソビエト連邦は解体され、構成共和国の一つであったロシアは「ロシア連邦」として独立しました。

初代大統領エリツィンの政権下で、市場経済への急激な移行を断行しましたが、これは深刻な経済危機と社会の不安定化を引き起こしました。

プーチン大統領の登場と強いロシアの復活を目指す現代の動き

1999年の大晦日、プーチン氏が後継者として大統領に就任します。

彼はエリツィン時代の混乱を収拾し、「強いロシアの復活」を掲げました。豊富な天然資源の価格上昇も追い風となり、ロシア経済は安定を取り戻し、その強力なリーダーシップは国民から高い支持を集めました。

まとめ:ロシアの誕生と歴史のポイントをわかりやすく総括する

ここまで、ロシア誕生の瞬間から現代に至るまでの壮大な歴史の旅をしてきました。

最後に、この長い物語の重要なポイントを改めて振り返り、ロシアという国の全体像をしっかりと心に刻みましょう。

キエフ・ルーシから始まり専制と改革を繰り返してきたロシアの歴史

ロシアの歴史は、9世紀のキエフ・ルーシという共通の源流から始まりました。

その後、モンゴル支配、イヴァン雷帝の専制、ピョートル大帝の西欧化、ソ連という社会実験、そして現代ロシアへの移行という、まさに激動の連続でした。この歴史は、常に「強い国家」であろうとする意志に貫かれていると言えるでしょう。

ロシアの歴史を理解することが現代の世界情勢を読み解く鍵となること

ロシアの歴史を学ぶことは、単に過去を知るということだけにとどまりません。

現在のロシアの政治や文化、そして外交政策を理解するためには、その歴史的背景を知ることが不可欠です。ロシアの歴史を知ることは、現代の世界が直面する様々な問題をより深く、多角的に読み解くための重要な鍵となるのです。

この記事で紹介した流れを基にさらにロシアの歴史への探求を深めよう

この記事では、初心者の方にもわかりやすく、ロシアの歴史の大きな幹となる部分をお伝えしてきました。もし、さらに興味が湧いたなら、特定の時代や人物に焦点を当てて学びを深めてみることをお勧めします。

  1. 全体像を掴む書籍を読む:まずは歴史全体の流れを解説した本を読んでみましょう。例えば、『物語 ロシアの歴史』(中公新書)などは読みやすく、最初の1冊として最適です。
  2. 映像でイメージを掴む:文字だけでなく、映像作品も理解を助けてくれます。信頼できる情報源として、NHK高校講座の世界史のウェブサイトでは、ロシア史に関連する回が動画で分かりやすく解説されています。
  3. 興味のある時代を深掘りする:全体像が掴めたら、自分が特に面白いと感じた時代や人物(例:エカチェリーナ2世、ラスプーチン、スターリンなど)について書かれた本やドキュメンタリーを探してみましょう。学びがより一層楽しくなるはずです。

この知識を土台として、あなた自身の知的好奇心の赴くままに、さらに豊かなロシアの歴史の世界を探求してみてください。

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